2012年 2月 15日

台湾にて淺井長政、その他固有名詞

 昨年末12月22日から26日までの5日間、編集を担当した『神の木』の著者、李春子さんが台
北で行われたシンポジウムに出席するのに同行して台湾に行ってきた。
 初日(22日)の夜に台北に到着して台北市教育会館で1泊。
 2日目(23日)朝、歩いて5分ほどの森林保育ビルへ。会場の12階ホールで、台湾と韓国と
日本3国の研究者が地域で信仰の対象となっている巨木の保護をテーマに報告。
 3日目(24日)は台湾中央部にある阿里山で樹齢約2300年というタイワンヒノキを見学、標
高2000mちょうどに建っている青年活動センターに1泊。
 4日目(25日)は、午前中に阿里山森林鉄道100年の祝賀イベントと嘉義植木園を見学して、
午後に再び台北へ戻って中正紀念堂や台湾大学構内などを見学。
 だいたい以上のような日程なのだが、紀行文を書けるほどの知識は持ち合わせていないので
、ある共通点によって1ヶ月余り経った今も記憶に残っている場面を記しておく。
                                          
 25日の晩餐で料理店の丸テーブルを囲みながら、行政院農業委員会林業試験所研究員兼組長
(名刺の肩書きのまま)の邱志明さんが李さんと話しているうち、「織田信長が好きだ」と言
い出す。親日の台湾でも戦国武将ブームが起こっていたからなのか(実際、書店には三国志本
などと同じ並びで日本の戦国武将本があった)、ちょうどNHK大河ドラマ「江」は台湾でも放送
されていたからなのか。
 それを聞いて、私の右隣に座っている北村正隆さん(米原市在住、樹木医)がメモ用紙にボ
ールペンで琵琶湖と安土城の位置を描く。私の左隣に座っている邱さんの部下にあたる若い男
性研究員(ずっと市内観光の案内役を務めてくれたのだが、名前はすでに失念。台湾大学で植
物病理学を専攻)が、メモ用紙に描かれた琵琶湖の右上に「淺井」と、日本でいえば旧字にあ
たる漢字で書き、下の名前が思い出せずに「アザイ…、アザイ…」と唱え続けるので、私は「
ナ・ガ・マ・サ」と言いながら「長政」と書きつけ、お互いうなずき合う。
                                          
 日をさかって、23日のシンポジウム当日の晩餐。25日より人が多いので丸テーブルは二つ。
私の右隣に李さんの友人で日本に来て40年の韓国料理研究家・崔(チェ)さん(日本語ペラペ
ラだから、北村さんと私の通訳)、その隣に韓国国立文化財研究所学芸研究士の金(キム)さ
ん(女性。双子7歳の子供あり)が座っている。
 紹興酒の乾杯を何度か受けていくらか顔の赤らんだ金さんが、崔さんと韓国語で話している

「………キタムラ……………ショーン・コネリー…………………」
 私の耳には、二つの人名だけが単語として聞き取れて、こちらも紹興酒で酔いの回った頭が
なぜか瞬時に、「北村先生ってさ、ショーン・コネリーに似てると思いません? 銀髪で渋い
顔立ちで」という日本語に変換する。頼みの崔さんは蒸し魚だか烏骨鶏だかの取り分けに集中
していて、金さんの話を聞いてはいない。空耳で「ショーン・コネリー」と聞こえる韓国語が
あるのか。
                                          
 翌24日、台湾高速鉄路(日本の新幹線にあたる)で台湾中央部の嘉義県へ。大型バスに乗り
込んで標高2000mを超える山地にある阿里山森林遊楽区へ。
 巨大なヒノキの木々の中に整備された遊歩道を歩きながら、私の背後で案内役の林業試験所
の職員(女性)と英語で話している金さんの言葉が耳に入ってくる。
「…………アバター……………」
「映画の『アバター』の世界みたい…」と、私の頭の中で変換されて、こちらは前後の単語か
らして(英文で再現できないが)、「ショーン・コネリー」よりは自信がある。
 我々一行以外に歩いているのは中国人団体客ばかりで、「紀州の高野山みたいやもんね、日
本人はわざわざ来ないわ」という崔さんの言葉にうなずいていた私だったが、青い肌の巨人が
暮らす異星の密林に似ているといわれれば、確かにそうともいえ…。
 突然振り向き、「そうそう、アバター」と相槌を打つ私に、金さんが驚く。
                                          
 韓国語と台湾語と英語が飛び交う研究者一行にまぎれこんだ、日本語以外わからない私が反
応したもの、それは固有名詞だったわけだ。
 帰国後、カメラ店のプリントサービス用のパソコン画面で台湾で撮った写真を選んだ。最近
は、拡大表示してトリミングまでできる。画面には、台北での宿泊先だった台北市教育会館の
前の大通りを撮った1枚。最終日の朝に食堂で朝食をとってから正面のカフェコーナーのイス
に座って、行き交うバイクと歩行者(朝の通勤・通学の人々)を眺めていた時のもの。写って
いる信号機の横棒に取り付けられた緑色の四角い地名表示板に「牯嶺街」とあることに気がつ
く。
「クーリンチェ(牯嶺街)だ」
 家に戻り、『牯嶺街少年殺人事件』日本公開時のパンフレットを探す。中に地図入りで解説
があった。「周辺には国立歴史博物館、科学館、中正(蔣介石)紀念堂、総統府(大統領官邸
)などが建ち並ぶ文化地区で、本作の主人公スーが通っていた建国中学はここから通りを一つ
挟んだ所に位置している」
 台北市教育会館の西側に面した、大通りと交差する通りが牯嶺街だった。細い通りなので持
っていた昭文社の観光ガイド本の地図には載っていない。
 1991年公開(日本では翌年公開)の台湾映画『牯嶺街少年殺人事件』(エドワード・ヤン監
督)のロケ地だった台北植物園と台北市立建国中学(日本の高校にあたる。朝、歩いてる学生
が男ばっかりだなと思ったら、男子校だった)を、それと知らぬ間に見ていたらしい。牯嶺街
自体は、1961年に起こった実際の事件当時の姿とは変わってしまっていたので撮影は行われて
いない。
 ちょうど映画完成から20年目、事件から50年目の偶然に驚くよりも(ロケ地を巡る趣味もな
いので)、この話の流れとしては映画が「牯嶺街」という固有名詞が入ったタイトルであった
ことに感謝すべきなのだろう。同じヤン監督の作品でも、『恐怖分子』、『カップルズ』、『
ヤンヤン夏の思い出』などだったら、舞台となった場所がどこだかわかったはずがないから。

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