2015年 10月 12日

ミシン、移民、伊勢商人(その2)――再び、小津久足『煙霞日記』ほか

(前回からのつづき)
 テッド・Y・フルモトの小説『バンクーバー朝日 日系人野球チームの奇跡』に登場する日系人社会の顔役、鏑木は「朝日」というチーム名の名づけ親だという設定で、この名は本居宣長の有名な和歌「敷島の大和心を人問わば朝日ににおう山桜花(日本人の心とは朝日を浴びて香る桜の花のようなものだ)」にちなむと披露する場面がある。
 これは創作で、史料や取材をもとにしているわけではない。前回書名をあげたノンフィクション、後藤紀夫著『伝説の野球ティーム バンクーバー朝日物語』にチーム名の由来に関する記述はない。ないのだが、カナダには「敷島」「ヤマト」という名前の日系人チームがあったことは事実なので、これらの名が本居宣長の歌に由来する可能性は高い。
 そもそも、これらの名から何を思い出すかといえば、明治37年(1904)、日露戦争の戦費調達のために日本政府が発売したタバコの4銘柄「敷島」「大和」「朝日」「山桜」だろう。この4銘柄の名前が宣長の歌に由来することは事実である。当時の日本人なら知らぬ者のない和歌だった。思想としても、宣長が「漢意(からごころ)」に対比させた「大和魂」が、明治以降、新渡戸稲造の『武士道』で言及されたことなどから復活する。
 現在も、本居宣長は国語と日本史の両方で暗記すべき人名だ。高校の日本史資料として利用され、一般書店でも購入できる『図説 日本史通覧』(帝国書院)の2015年度版の場合、189ページに「本居宣長六十一歳自画自賛像」(国の重要文化財)がカラーで掲載されており、自画像の左上にそえられた和歌が赤線で囲まれ、引き出し線の中に「しき嶋のやまとごころを人とはば/朝日ににほふ山ざくら花」と書かれている文字が示されている。
 同じページの左側に掲載されている表「国学者の系譜」にある解説は以下のとおり。
 「賀茂真淵に学び、『古事記』の注釈書『古事記伝』を完成、日本古来の精神への復帰を主張して国学を体系化。『源氏物語玉の小櫛』(注釈書)、『玉勝間』(随想集)などを著す。」
 30年前高校生だった私には単に暗記する名前でしかなかったのだが、10年近く前、担当した書籍の関係で、近江出身とされる室町時代の連歌師・宗祇と江戸時代の歌人・北村季吟を調べ、その流れで本居宣長の著作も読んだ。いずれも『源氏物語』に対する注釈をおこなった人として、いまでいえば「文芸批評家の系譜」に連なっている。
 ご存知のとおり、『源氏物語』の筋は、主人公・光源氏の恋愛遍歴である。例えば、戦国時代の公卿・三条西公条による注釈書『明星抄』の場合、物語内容が「ことごとく好色淫乱の風」であるのは、「この風の戒め」とするためであると説いている。現代の感覚からすると苦しい言い訳のような鑑賞法が、中世・近世を通して継承された。
 これに対して、宣長は、いやいやそんな道徳の教科書のように『源氏物語』を読むのは誤りだ。『源氏物語』本文に「登場人物の行動に心ひかれる」とあるではないか(つまり、それを否定していない)。文学は道徳とは別の価値基準がある。矛盾をかかえ愚かに見えるどのような行為、心理であろうと、すべてを書かれているままに味わうべきだと主張した。
 ここまでなら、そのとおりというしかない(まぁ、それ以前の道徳的解釈も「たてまえ」だったのだが)。ところが、ここから奇妙な理屈が展開する。
 本来、日本には心の移り行きをそのままに味わう素直でやさしい精神=「物のあわれを知る」心があった。しかし、漢国(からくに=中国)から儒教と仏教が伝わり、自分の心を偽る「さかしら心(利巧ぶった考え方)」が広まった。さぁ、『古事記』にさかのぼって、「古道(日本に古来から伝わる固有の精神)」を明らかにしたぞ。やはり日本には、万事を神のはからいとして素直に受け入れる神道がふさわしい(今の神道は堕落しているが)。
 以上、参考にした『本居宣長集』(新潮社)の「解説」(日野龍夫)も、その論理展開を「ふと気がつけば啞然とせざるを得ない」としているが、そう感じて納得しなかった人間は江戸時代にもいた。すぐそばに。
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 というわけで、今年2月22日付けの当ブログ「われはやくより病あり」で紹介した、江戸時代後期の伊勢商人、小津久足が再び登場する。
 そこで紹介した近江への紀行文「煙霞日記」に次のようなくだりがある。
 久足は永源寺へ向かう途中の高野村にある茶屋で、彦根から来た3人の彦根藩士(水野工樹、上田正方、山口友之)と知り合う。彼らも久足と同じく本居門下に連なる者だとわかる。永源寺で紅葉を愛でてのちの語らいの場で、話上手の水野と打ち解けたころあいに、久足は「本居先生の学風や和歌の歌い方は、もう流行遅れだと私は思う」と恐る恐る口にした。すると、水野はわが意を得たりという風に手を打って同意したので、さらに「今日の紅葉狩りは、桜好きの本居風にはできないことだ」と言って笑いあった。
 宣長の本来の姓は小津で、久足と同じ伊勢商人の一族である。「本居」は、戦国時代の武将、蒲生氏郷(商都・松坂を築く)に仕えた6代前の祖先、本居武秀の姓に戻したもの。ただし、血脈はつながっていない。久足(1804~1858)は、宣長(1730~1801)の長男、春庭(はるにわ)(1763~1828)の門人であり、その長男、有郷(ありさと)(1804~1853)の後見人となった。生没年を見れば、有郷と同年生まれで、宣長の孫の世代ということになる。
 ここからは、最初に久足について書いた当ブログ(「われはやくより病あり」)へのコメント欄で、板坂耀子先生にご教示いただいた髙倉一紀ほか編『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(二)』(皇學館大学研究開発推進センター 神道研究所)を参考に。
 同書巻頭にある解題によれば、春庭を師として国学の研鑽につとめた久足だったが、春庭の著した『詞八衢(ことばのやちまた)』(宣長の『詞の玉緒』を発展させた動詞の活用語集)を読んでもどうにも性に合わない。「おのれはかりにも信ずることなく、常にいみきらふことはなはだしく」「とにかく心にかなはぬをしへおほき」(「斑鳩日記」)と感じる。
 決定的だったのは、近江の石山寺参詣だという。普段から観世音菩薩を信仰していた久足は本堂を参拝して、「やまとだましゐとかいふ無益のかたくな心」とは決別したと記す(「花鳥日記」)。
 理由は、仏教への信仰心のためばかりではない。古学というには、「むかしより聞えぬことなるを、近来つくりまうけたるみちなり」「『やまとだましひ』『まごゝろ』『からごゝろ』などいふ、おほやけならぬ名目のかたはらいたくなりて」(「陸奥日記」)。
 「大和魂」なんぞは、最近になって作られたお題目でしかなく、笑止千万だというのだ。
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 そうすると、もう一度『ミシンと日本の近代』に戻ることになる。同書は、日本人の読者が好みそうな、「日本的特性」を明らかにする「日本文化論」としては書かれていない。最後にあるのは、「われわれの結論は、『日本では特殊にも』ではなく、『日本では、ほかのどこでもそうだったように』という句ではじめざるをえない」という、身も蓋もない(が、真実の)言葉だ。
 本書の中で引かれる「日本的特性」や「日本人らしさ」は、あくまで西洋(ヨーロッパとアメリカ)との対比で論者が都合よく定義した(新たに創造した)ものとして扱われる。1870年代以前(江戸時代)に、日本の「忘れることのできない他者」の役を担ったのは中国だったとも、ちゃんと書かれている。本居宣長が「漢意(からごころ)」に「大和心」を対置したようにである。
 1932年10月にシンガー社のセールスマンが行った労働争議では、争議団メンバー=日本人セールスマン50人が靖国神社と明治神宮に「成功祈願」に出かけていた。彼らが、シンガーのやり方は「崇高ナル大和民族ニ対」する「侮辱的言動」だとしたのは、世界中のどの国でも起ってきたグローバリズムの進展にともなうナショナリズムの高揚というやつの典型的な例にあたる。
 1930年代には、シンガーに対抗して、三菱、パイン、蛇の目、ブラザーなどの国内メーカーも誕生した。製造技術を提供した者の中には、争議後シンガーを退社した元従業員も多く含まれていた。164ページにブラザーの第1号ミシン、165ページにシンガーの一般的家庭用ミシンの写真が並べて掲載されているが、フォルムも部品の配置も表面にプリントされた図案と書体もそっくりである。
 国内メーカーは、コピー製品をつくり、セールスマンを全国に配置して月賦販売をおこなうシンガーのシステムもそっくりまねた。にもかかわらず、月賦制度についてパインは、月ごとに積立金を払う無尽講を採り入れた「日本の伝統的」な購入方法だと説明した。
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 さて、小津久足の家の分家の子孫に、映画監督の小津安二郎がいる。小津安二郎は「日本的な」映画監督だろうか? 今年4月に刊行されたハーマン・G・ワインバーグ著/宮本高晴訳『ルビッチ・タッチ』(国書刊行会)は、「映画史上最も洗練された映画監督」として知られるエルンスト・ルビッチ(「ニノチカ」最高!)の評伝だが、日本版特別寄稿として収録された山田宏一の「永遠のエルンスト・ルビッチ」第6節は、「ルビッチと小津安二郎」と題して、小津がルビッチ作品のファンだったことを示す小津本人や関係者の証言をひき、女性キャラクターやギャグの演出にルビッチの影響がみてとれるとしている。
 ちなみに、私が現時点で一番好きな小津作品は「麦秋」(1951年)。物語終盤で、主人公の紀子(原節子)が見合いをするはずだった相手の顔を拝みに友人のアヤ(淡島千景)と並んで廊下を抜き足差し足進むシーンは何度見ても微笑んでしまう。
 とうのルビッチは、ドイツ・ベルリン生まれのユダヤ人。ドイツで映画監督として活躍後、ハリウッドに招かれ、1920年代半ばから1940年代初頭までヒット作を連発し、「スクリューボール・コメディの神様」と称される。本書の帯には、その作風を評した「流麗優美 軽妙洒脱 淫風爛漫」という四文字熟語3つがピンク色で印刷されているが、さてこれは、ルビッチの「ドイツ的」な性質に由来するのだろうか?
 本書「まえがき」には、「批評家は彼のなかにあるフランス的風趣とギリシャ的機知の混在に注目したのだが、彼のインスピレーションの源泉となったのは(中略)、近年のハンガリーとバルカン諸国(ルビッチという姓はバルカン半島にルーツがある)の文化だったように思われる」とある。列挙される国名の数は、ルビッチ・タッチに「国民性」を持ち出しても無意味であることを逆説的に示しているだろう。
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 話を小津久足に戻す。
 『神道資料叢刊14 小津久足紀行集(一)』の方の解題は、商人としての久足は家産の維持に努めた「極めて冷徹な現実主義者」だったとしている。子孫へ商売上の心得として書き残した『家の昔かたり』には、「もとより交ありとも、零落せし人には遠ざかるべし」と、それが道徳的には批判されるべきことだと承知のうえで、率直に記しているからだ。
 一方で、家産の維持さえできれば、「おもしろく、遊びてくらすが肝要也」とも書く。この辺をもう少し掘り下げたのが、平川新編『江戸時代の政治と地域社会 第2巻 地域社会と文化』(清文堂出版)に収録されている青柳周一滋賀大学経済学部教授の論考「天保期、松坂商人による浜街道の旅 小津久足『陸奥(みちのく)日記』をめぐって」。
 「陸奥日記』は、天保11年(1840)に、江戸と陸奥国松島(宮城県)を往復した旅行記。銚子(千葉県)の港を訪れた際、商売上の取引先(干鰯製造業者?)へ挨拶に立ち寄ったことを記したところで、久足の筆は自らの商売観におよぶ。
 世間の趣味人はたいてい家業を俗事と卑しくおとしめて、結局家を傾けてしまう。私がそうならず、趣味と家業を両立できているのは、空恐ろしいまでにありがたいことだ。珍しい本を思うまま買うことができるのも商売がうまくいっているおかげだ。まったくその恩を忘れることはできない……というようなことを思いつつ、銚子の取引先を回った。
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 ここで冒頭の『わが父塚本邦雄』にもどる。
 小学校低学年の息子(靑史)が父に尋ねた。
 「おとうさん。あんたは子供のとき、いったいどんな遊びをしてたんや?」
 父は答える。
 「漢和辞典を引っ繰り返して、難しい字から順番に覚えていた」
 四人きょうだいの末っ子に生まれ、辞書を片時も手放さず、兄や姉が買い与えられていた『千一夜物語』『万葉集』『新古今集』を当人よりも先に読む子供。後の前衛歌人を生んだのが商家の富だったことは確かなのだ。
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 ダメだ。書く前に頭の中でアウトラインができあがっていたから、思いがけない方向に転んでくれなかった。いまいちなので、以下おまけ。
  結婚衣裳縫ひつづりゆく鋼鐵のミシンの中の暗きからくり
 ミシンの語が詠み込まれた作品はないかと思い、「塚本邦雄」「ミシン」で検索したらヒットした。収録されているのは、第二歌集『裝飾樂句』(1956年)。
 書名は「カデンツァ」と読ませるとのこと。
 あーっ、前々回にちょろっと書いておいた岸誠二監督『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza(カデンツァ)』が10月3日から公開中なのに、まだ観にいけてない!

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